宣親の回想 正応四(1291)年 卯月

「気がついたかい」

目を覚ますと、見慣れた白面に並んだ桜色の八つ目がこちらを見下ろしていた。意識を失う前、この者は私が差し出した手を取った。そして余ったもう片方の手を私の胸に挿し込み心臓を握りつぶしたのだ。あの異様な感触と激痛は、はっきりと憶えている。

「……痛かったんだけど」
これほどの苦痛が伴うと事前に説明しなかったことに一応抗議する。よく考えれば一旦死ぬのだから痛みくらい当然あるだろう。何も考えていなかった私が悪い。抗議された桜の側はというと、私の機嫌など気にも留めず「そう、文句が言えるようになってよかった」と、しれっと返してくる。

どうやらここは屋内らしく、私は部屋の真ん中あたりで台に乗せられて仰向けに寝かせられているらしい。板壁の上の方に細く横長に開いた明かり取りの窓から弱々しい光が差し込み、室内をぼんやりと薄紫に照らしている。部屋の隅(すみ)や手元は光量が足りないのか、内側に灯りを閉じ込めた高さ四寸ほどの小さな籠のようなものが、ところどころ置かれていた。

桜はいつもの大仰な装束ではなく、黒い袖細の直垂に同じく黒い前掛けをした簡素な作業着を着ている。前掛けには、黒い染め色の上でも尚はっきりとわかる赤黒い染みが大小の不定形の模様を作っているのが見えた。何か血の出るものを触っているのだろう。そういえば目を覚ましてからこちら、血のにおいがずっと鼻についている。

桜が直垂の懐から一枚の札を取り出し、目の前にかざす。手のひらほどの大きさの紙に、米粒のように小さな文字で祝詞のようなものが書かれているのが見える。もう何年も、白くぼやけたり滲んだりでこの大きさの文字は判別できなかったのだが、今は霞が晴れたようにはっきりと読めた。

「これ読める?」
「……平けく安けく護り奉る神の御名を白さく、屋船久久遅命 木の霊、屋船豊宇気姫命と」

私が文字を読み上げると桜は、うん、と小さくうなずき、先ほどの紙をさらに私のすぐ目の前まで寄せる。この距離は近年特に焦点が合いにくくなっていた。

「近づけて見える?」
「見える」
桜がふたたび、うん、とうなずき、今度は二間ほど離れた板壁に貼られている紙を指す。
「あれは?」
「……ぼやける」

何か文字が書かれているのはわかるが、字の形まではわからない。
「直らなかったね、元から?」
「近眼(ちかめ)は童(わらわ)のころからだ」
もともと目は悪かった。生まれてこのかた、この距離の文字が読めた試しはない。

「生まれつきの欠けや体質によるものは直せないんだ、あなたの目は今後もそのまま」
「かまわない、これだけ見えていれば読み書きに不自由はない」
老眼が治っただけでも御の字だ。

「耳は聞こえてる、思考も明瞭、鼻は」
桜が棚から何か小さな紙包を取り、私の鼻先にかざす。甘いような少し辛味のあるような、この匂いはすぐわかる。
「丁子」
「大丈夫そうね」

元の棚に丁子の包みを片付ける桜の背を見ていて嫌なことに気付いた。見える、聞こえる、においもわかる、だが体が全く動かないのだ。それどころか感覚もない。首から下が消え失せたのではと不安になり、こちらに向き直った桜に「体が動かないが」と訴える。

「いま首から下は経絡(けいらく)を切ってあるから」
桜の表情は面に塞がれ見えない。見えたところで、放たれた静かな口調から察するに眉ひとつ動かしていないのだろう。

やさしく穏やかだが、どこか冷えた声で桜が言を継ぐ。
「見られないと思うけど見ない方がいいよ、肚の中身をほとんど出してる。山に繋いだあとも不自由なく動くようにね、修復や調整を先に済ませてるんだ。生きているうちにやるとそれこそ死んじゃうような作業だからね」

聞いてるうちに、気が遠のいてきた。目を開けているのに視界が暗くなっていく。
「……気分が悪い」
「不愉快だった?」
桜が先ほどのひんやりした口調の延長で機嫌を尋ねるので、「いや、単に気を失いそうなだけ」と返してやる。この程度で不愉快になるなら何十年も前に斬っているところだ。

「血が減っているからね。さ、また修復に戻るからあなたは寝ていて」
勝手に殺して、勝手に起こして、また寝ろと言う。「勝手だな」と悪態をつくと、面で隠れていても薄ら嗤っているのがわかる声で「そこをなんとか」と宥められた。

「じゃあ、またあとでね」
布を顔の上に被せられ、視界が白く柔らかく閉ざされる。次に起きたら何を言ってやろうかと考える間もなく、私の意識は底に沈んだ。